それもそのはず、ここは江戸時代、新田開発のために干拓して作られた土地なので、海岸線が真っ直ぐなのだ。
以前紹介した小学校で使われている読み物『伝えたい!豊後高田の先人たち』(豊後高田市教育委員会)によると、干拓を始めたのは、天領日田の代官・塩谷大四郎(しおのやだいしろう)という人物。
その塩屋大四郎が、日田で土木工事などに造詣が深く、地域に貢献していた廣瀬久兵衛(ひろせきゅうべえ)に命じて干拓が始まったのが1828年なので、今から約200年も前のことだ。
当時の作業と言えば、頼るのは人力だけなので、汐留の堤防を作る大土木工事は困難を極め、完成までに何と7年物歳月がかかったということだ。
貧しい人々を助けようと干拓を推し進めた大四郎は、村人の心の拠り所となるよう「産土(うぶすな)神社」も創り、村人たちから大変慕われていたそうだ。
そのため、大四郎への感謝と尊敬の気持ちを忘れなかった人々が、後年神社境内に「塩屋社」とその脇に大四郎の石像を建立したということだ。
神社の拝殿には、干拓時の苦労した様子が描かれた「汐留」の絵馬が、かなり色褪せてはいたが奉納されていた。

「産土神社」の場所は、豊後高田市街地から国道213号線を2km程北上。
左手にある「呉崎郵便局」の斜め後方、右手に大きな狛犬(半月前、「国東半島に「来ちょくれ」倶楽部」内で小川さんが国東半島最大と紹介されていた)の控える神門が見える。
呉崎の干拓地は、その国道から左に入って行った奥に広がる海に面した広大な平地である。