2018年12月30日

呉崎干拓に尽力した塩屋大四郎は人々のために「産土神社」も建立

 昨日、ブログに書いたネギ畑の広がる呉崎から真玉地区まで地図で見てみると、海岸線が5km程にわたって実に真っ直ぐだ。
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 それもそのはず、ここは江戸時代、新田開発のために干拓して作られた土地なので、海岸線が真っ直ぐなのだ。




 以前紹介した小学校で使われている読み物『伝えたい!豊後高田の先人たち』(豊後高田市教育委員会)によると、干拓を始めたのは、天領日田の代官・塩谷大四郎(しおのやだいしろう)という人物。
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 その塩屋大四郎が、日田で土木工事などに造詣が深く、地域に貢献していた廣瀬久兵衛(ひろせきゅうべえ)に命じて干拓が始まったのが1828年なので、今から約200年も前のことだ。

 当時の作業と言えば、頼るのは人力だけなので、汐留の堤防を作る大土木工事は困難を極め、完成までに何と7年物歳月がかかったということだ。


 貧しい人々を助けようと干拓を推し進めた大四郎は、村人の心の拠り所となるよう「産土(うぶすな)神社」も創り、村人たちから大変慕われていたそうだ。
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 そのため、大四郎への感謝と尊敬の気持ちを忘れなかった人々が、後年神社境内に「塩屋社」とその脇に大四郎の石像を建立したということだ。
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 神社の拝殿には、干拓時の苦労した様子が描かれた「汐留」の絵馬が、かなり色褪せてはいたが奉納されていた。
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 「産土神社」の場所は、豊後高田市街地から国道213号線を2km程北上。

 左手にある「呉崎郵便局」の斜め後方、右手に大きな狛犬(半月前、「国東半島に「来ちょくれ」倶楽部」内で小川さんが国東半島最大と紹介されていた)の控える神門が見える。
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 呉崎の干拓地は、その国道から左に入って行った奥に広がる海に面した広大な平地である。

 
posted by よっちゃん at 20:47| Comment(0) | 伝統文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月29日

豊後高田のネギは太くて甘くて最高においしい!

 この寒さでは、夕食は鍋に限るということで、ネギをたくさん買い込んできた。
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 豊後高田は知る人ぞ知るネギの産地だ。



 それにしても、こんなに太くて立派なネギには、めったにお目にかかれない。

 一束100円なので、これだけ買っても500円とは安すぎる。

 年末・年始用に、ありがたいことだ。



 こんなに立派なネギが、どんなところで作られているのか気になって、ネギ畑の広がる呉崎地区へ行ってみた。

 すると、そこにはネギ畑がずっと先まで続いていた。
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 ここは干拓地で、もとは海だった砂地にネギがびっしりと植わっている。

 畑の砂のあちこちに、白い貝殻が見え隠れしていた。
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 こんな砂地が、ネギやもう一つの名産落花生の栽培に適しているのだそうだ。



 できるだけネギの上の方まで白くするために、畝をとても高くして、かなり上の方まで砂がかぶせてあった。
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 初めて見るネギ畑の景色は、それはそれは壮観であった。




 畑の一角では、年末・年始用に今が収穫の最盛期なのか、4・5人がかりで収穫を行っている人影が見えた。

 ネギを大きな束にくくって、どんどん積み上げていっている。

 寒風吹きすさぶ中、このように大変な作業をして、安くておいしいネギを提供してくれているのは、本当にありがたい限りだ。


 
 ネギを1束全部(2本とも)刻んでお鍋で食べてみたら、トロッとして甘みが強く、とてもおいしかった。

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posted by よっちゃん at 21:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月25日

まだ知らない「庚申様」がこんなに近くにいらっしゃったなんて!

 「あっそうだ。この上に庚申様があるよ」とT氏が言い出した。
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 風は冷たいものの、いい天気に誘われて夕刻散歩に出かけ、偶然出会ったご近所さんのT氏と話していた時のことだ。

 T氏は、この辺りの名刹や歴史的遺物に詳しい。

 「案内しようか?」と言われたので、お願いしてついていくと、そこはウチから目と鼻の先の崖の上。



 崖に無理やり通り道をつけて上がれるようにしているため、登っていくのも一苦労。

 大袈裟な話ではなく、本当に坂道の一番急な部分の斜度は45度にものぼるだろう。

 気を付けないとずるずると足はすべるし、横につけられた手すりを持たないと次の一歩が踏み出せない。

 上がっている途中で、崖下を見下ろしてみると、田園風景が夕日に映えて何とも長閑な景色である。
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 なぜこんな急峻な崖の上に、庚申様を祀ったのだろう?

 今ではだれも登ってきそうもない崖の上に、古の人たちは上がって来て、庚申様を拝んでいたのだろうか?

 俄かには信じられないくらいの険しい山の上だ。

 
 険しい獣道のような細道をT氏について上がっていくと、崖の奥の林の中に庚申様は立っていた。
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 周りにはお墓だろうか?たくさんの石版のようなものが転がっている。

 庚申様の後ろに回って、作られた年代を確かめてみると、辛うじて「寛政」の文字が読み取れた。

 「寛政」と言えば、松平定信の「寛政の改革」で有名な元号で、西暦1800年頃第11代将軍徳川家斉の時代、200年以上も前のことだ。
 
 そんなに昔から立っている割には、林の奥にあるからか、あまり朽ちた感じはしない。

 
 
 T氏によると、三猿の下に鳥が2羽彫られているのは、珍しいとのこと。
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 「ここに庚申様があるのは、昔ここにも畑などが作られていたからじゃないか?」とT氏が言われた。

 今は、木々に覆われたこの崖の奥にも、畑が作られていたなんて俄かには信じられないが、200年以上も遡った時代には、ひょっとしたらそんなことになっていたのかもしれない。


 また、一つ伝統文化の奥深さを感じた「庚申様」参りであった。


 
posted by よっちゃん at 22:47| Comment(0) | 伝統文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする